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​教会の紹介

​ようこそ神戸聖愛教会へ
教会の歴史
牧師の紹介
教会の契約

私たちの教会の日々の活動について少しコミカルなタッチでご紹介した動画を作成しました。動画のページはこちらです。

教会の歴史

神戸聖愛教会は、「神戸浸(しずめ)教会」として1882年(明治15年)に誕生しました。

日本に宣教師を送った教派には長老派・メシジスト派・組合教会などさまざま教派がありましたが、私たちの教会の基礎を作ったバプテスト派もその中のひとつです。
 1882年(明治15年)3月1日、北部バプテスト派の宣教師リース博士が、その頃、神戸の北野番外地の自宅に、「神戸浸(しずめ)教会」を開いたのが神戸におけるバプテスト派の宣教の発端です。その後、1895年(明治28年)2月にリース博士を助けるために来神したタムソン宣教師夫妻が葺合の小野浜に開いた基督教主義の「善隣幼稚園」内に伝道所を、同年8月に兵庫の戸場町に講義所を開きました。これらが、後の神戸・葺合・兵庫の三つのバプテスト教会に発展したのです。

リース宣教師
「神戸浸(しずめ)教会」の創始者、ヘンリー・ホルコム・リース博士は、1828年に米国のニュージャージー州で生まれ、カリフォルニア州で弁護士・判事をしていた時、福音の宣教に使命を感じ、按手礼を受けて牧師になりました。50歳の時に外国伝道宣教師を志願、1878年(明治11年)来日し、「東京第一浸礼教会」などで宣教に当たりました。その後関西伝道のため1882年(明治15年)神戸に移住し、バプテスト派として関西最初の伝道を始めました。

 北野の自宅を教会・学舎および牧師館として開放し、最初の伝道師・牧師を育て助けて宣教を続けました。その上、1892年(明治25年)には米国ミッションの授けを受けて、下山手通に当時としては立派な会堂を建設するなど、私たちの教会の基礎を固めた人です。こうして日本宣教18年、リース氏は、1899年(明治32年)5月10日、71歳の老齢をもって北野の家で天に召されました。1981年(昭和56年)リース宣教師の墓標が再度山の外国人墓地にあることが判り、以後、私たちの教会では、毎年5月の第2主日に同墓地を訪れて墓前式を行い、その働きを学び、祈りを捧げています。

タムソン宣教師夫妻
 ロバート・オースチン・タムソン博士は1860年スコットランドのエジンバラに生まれました。ロンドンのハーレイカレッジで神学を学び、1884年(明治17年)に来日、4年後、米国北部バプテストの宣教師に任じられた後に老齢のリース博士を助けるために来神、葺合の小野浜に住みました。1895年(明治28年)わが国最初のバプテスト系幼稚園「善隣幼稚園」を開設、夫人が初代の園長となり、同時に園内に伝道所を開き、また兵庫に講義所を置いて伝道を開始しました。これが後に、葺合バプテスト教会および兵庫バプテスト教会に発展、リース博士亡き後はバプテスト三教会全体の指導者として主の御用にあたる他、関西伝道、特に大阪伝道にも力を注ぎました。また福音丸による瀬戸内海伝道実現に尽力、さらに琉球伝道再開を果たして現在の沖縄バプテスト連盟の礎を築くなど、その業績は多岐にわたっています。しかし、夫人の病気の悪化もあり、1931年(昭和6年)想いを残して帰国、退任されました。1932年(昭和7年)夫人が病のため天に召されたちょうど2週間後の11月28日に72歳で天に召されました。1991年には、夫妻が米国ロングビーチのサニーサイド霊廟に葬られていることが判り、教会は2年がかりで交渉の末、失われていたネームプレートを大理石の墓石(蓋)に取り付けることが出来ました。

神戸バプテスト教会
 1882年(明治15年)に「神戸浸(しずめ)教会」として発足した教会は、それから10年後に神戸市下山手通に会堂を与えられると同時に「神戸浸礼教会」と名称を改めましたが、一般には「神戸バプテスト」と呼ばれていました。その後、1924年(大正3年)正式に「神戸バプテスト教会」と改称し、神戸のプロテスタント教会の中心的存在として伝道の成果を挙げていきました。
 教会創立10年後の1892年(明治25年)に通称トアロードと呼ばれた大通りに面した土地に与えられた会堂は、1945年(昭和20年)に戦災で焼け落ちるまでの53年間、「神戸バプテスト教会」の信徒の信仰を見守りました。

葺合バプテスト教会
 1895年(明治28年)タムソン宣教師夫妻は、小野浜の地で「善隣幼稚園」を開園すると同時にその場所で、キリスト教の伝道を始めました。1919年(大正8年)に独立して「葺合バプテスト教会」となりました。この教会は、神戸東部の、賀川豊彦氏が新生活運動の拠点とした生活困窮地区の伝道に当たりました。この会堂も1945年(昭和20年)6月5日早暁の神戸大空襲によって消失しました。

 善隣幼稚園は神戸で2番目に古い歴史をもつ幼稚園でした。港湾労働者など困難な家庭環境のこどもたちのために始められた日本で最初の福祉的幼稚園であったとされています。現在の賀川記念館のある土地はかつて善隣幼稚園があった土地で、賀川の働きのために善隣幼稚園が無償で譲渡しました。善隣幼稚園は園児減少により、1986年に惜しまれながら廃園となりました。

兵庫バプテスト教会
タムソン宣教師夫妻が、善隣幼稚園で伝道を始めると同時に、西部の兵庫に講義所を開いたのがこの教会の起源です。その後1908年(明治41年)に「兵庫浸礼教会」、1911年には「兵庫バプテスト教会」とその名称を変えていきました。この通称「兵庫教会」は、近くに「新開地」という歓楽街を控え、盛り場での街頭伝道中に石つぶての洗礼を受けるなど、他の教会には見られない幾多の迫害を経験しましたが、家庭的な教会として伝道活動を続けました。
その会堂は、講義所時代には兵庫の戸場町にありましたが、1911年(明治44年)塚本通に新会堂を与えられました。この会堂は木造モルタル張り、洋風の落ち着いたたたずまいは周囲の民家と溶け合った存在でした。礼拝堂の照明は当時でも珍しいガス燈で、その淡い光は敬虔な空間をつくっていました。これも1945年(昭和20年)3月17日に、他の二つの教会に先だって空襲により消失しました。

日本基督教団の成立

 神戸の3教会が属していた日本バプテスト東部組合は1940年に西部組合と合同し「日本バプテスト基督教団」となり、翌1941年、宗教団体法によって設立された日本基督教団に第4部として加盟しました。それにより教会名は下山手教会、葺合教会、塚本教会となりました。

 戦後、旧バプテスト東部組合の中で会派問題が起り、最終的にはその一部の教会は日本基督教団を離脱して日本バプテスト同盟となりました。一方、日本基督教団に残留する道を選んだ教会は教団新生会を形成しました。
 

神戸聖愛教会の誕生
 3つの姉妹教会が相次いで会堂を消失してから2年、1947年(昭和22年)「下山手教会」に仮会堂が与えられることになりました。占領軍の好意により、2棟のコンセント・ハット(元米軍戦時用組み立て兵舎・俗称「かまぼこ兵舎」)を会堂を消失した神戸の教会に抽選によって与えるというのです。籤が当たったときの、内藤牧師をはじめ会員一同の喜びは大きなものでした。これを、葺合教会の焼け跡の一部に仮設、同年11月15日に献堂式を挙げました。

 1948年には3教会は神戸聖愛教会として合同することを決議し、現在の土地に会堂を新築しました。献堂式は1952年11月15日に行われました。
 

新会堂の建築
 創立100年を記念して1982年、旧礼拝堂の北側に「記念ホール」(現在の北館)を建築しました。2階部分は牧師館になっています。

 創立110年にあたる1992年には、現在の礼拝堂を献堂しました。献堂式は3月1日に行われました。高い天井をもつ礼拝堂は音響に優れ、多くのコンサートが行われています。

 
 

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